
スピリチュアル界隈ではよく「ハイヤーセルフと繋がる」なんて言われますが、あの表現に少し違和感を覚えることはないでしょうか。
高い次元にいて、特別な儀式をして繋がる神聖な存在のような、そんなオカルト的なイメージで語られがちです。
しかし、その本質を論理的に解体していくと、実は単なる「意識のレイヤー(階層)の違い」であり、もっと言えば「究極の客観視」という視点移動の話に集約されます。
主観の中の客観視と、究極の客観視の違い
私たちが普段行っている一般的な客観視は、厳密には主観を完全に廃することができていません。
自分という枠組みの内側から世界を見て、その中で「私は今、冷静に状況を見ているぞ」と思っているだけです。
これは、自分自身を外側から客観視できておらず、どこまでも「主観の中の客観視」の域を出ていません。
これを映画に例えるなら、スクリーンに映っている登場人物が、劇中の自分の状況を冷静に分析しているようなものです。
どれだけ冷静に分析していても、そのキャラクターは映画の世界(主観)の内側に囚われています。
一方で、究極の客観視というのは、映画を見ている自分自身の思考、感情、肉体すらも、完全に外側の客席からスクリーン全体として眺めている状態を指します。
あるいは、ノートに書き出した自分のドロドロした感情や思考のすべてを、一冊のノートの世界にまとめられたデータとして、一歩引いたところからただ淡々と眺めている状態です。
これこそが、スピリチュアルで言うところの「ハイヤーセルフの視点」の実体です。
『パワーか、フォースか』に見る「認識」と「意識」の区別
デヴィッド・ホーキンス博士の著書『パワーか、フォースか』の文脈を借りて説明するなら、これは「認識」と「意識」の厳密な区別にあたります。
自分から見た世界や、自分の中に湧き上がる思考や感情はすべて単なる「認識」に過ぎません。
対してハイヤーセルフの視点、すなわち究極の客観視とは、自分が主人公の映画を客席から見ている観客の視点であり、これこそが「意識」です。
だからこそ、高次元の存在と「繋がる」という表現はおかしいわけです。
繋がるのではなく、単に自分の意識の持ち方を「その客席の視点に持っていく」だけなのですから。
肉体というハードウェアが持つ限界
ただし、現実的な事実として、私たちは肉体というハードウェアを持っています。
生存本能や五感のフィルターがある以上、24時間365日、この「100%完全な究極の客観視」を維持し続けることは不可能です。
肉体がある限り、私たちはどうしても再び映画のスクリーンの中に引き戻されます。
大切なのは、完璧にハイヤーセルフの視点と同化して生きるという幻想を追うことではありません。
肉体の制限を受け入れながらも、日常の中で「あ、いまスクリーンの中に没入していたな」と気づき、客席の視点へと戻る頻度を増やしていくこと。
それを日常で簡単に実践できるのがノートです。
スピリチュアルな言葉の霧を論理で払えば、そこに見えてくるのは、驚くほどシンプルで実践的なメンタルの扱い方なのです。
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